スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

2017の投稿を表示しています

小説『あのころの僕等』

一         あのころのぼくらは、若かったと思う。         あのころのぼくらは、運命を信じていた。出会うべくして出会ったのだと、揺るぎない絆を放課後の距離に認めた。         あのころのぼくらは、学校が嫌いだった。三人でなら、別の道を走れると思った。         それでも、つむじ風のような春は、やっぱりつむじ風のように、突然止んでしまった。         ぼくらはあの日から、すっかり離ればなれになった。 二       「会おうぜ」       茂(しげ)雄(お)からメールが届いたのは、土曜日の夜のことだった。すっかりSNSに移行していたぼくは、友人からメールを受け取るのなんて久しぶりだったから、危うく迷惑メールとして消してしまうところだった。       心臓が重い鼓動を刻むのがわかった。冬の寒気が、いっそう冷たく感じられた。       宛先のアドレスは、もうひとつあった。香(か)織(おり)のものだと、すぐにわかった。何年も経っているはずなのに、すぐに像を結ぶことができた。あいつはどんな顔でメールを読んでいるのだろう、と思った。       堀切駅のホームから出ると、少し遠回りをして帰ることにした。河川敷の風は冷たかった。駅前の再開発をかわぎりに街はすっかり変わってしまったけれど、河川敷の道は、あのころのままだった。朝焼けの通学路を思い出した。ぼくと茂雄はしばしば学校をサボって、街に出かけて行った。香織はよくそれを咎めたけれど、結局いつもついてくることになった。       三人はよくこの道を歩いた。どこかへ行きたかったけれど、どこへも行くお金がなかった。だからぼくらは地平線までまっすぐ延びるこの川沿いの道を歩きながら、タンポポを摘んだり、キャッチボールをしたり、安いギターで流行のラブソングを歌ったりした。もっとも、給料日前で数千円しかポケットにないぼくは、あのころと大して変わらないのかもしれない。       いつもたむろしていた図書館前を過ぎたころ、またスマートフォンが鳴った。今度は電話だった。通話ボタンを押すと、懐かしい声が聞こえてきた。       「よう、しろちゃん。久しぶりだな。メール見たか」       相変わらず、たたみかけるようにあいつは言った。「見たよ」とぼくは答えた。

コンタクトレンズ

 20歳のとき、ぼくは初めてコンタクトをつけた。  それまで眼鏡一筋だったぼくは、固形物を目に入れることなど、とんでもなく恐ろしくありえないことだと思っていた。  そんなぼくに、好きなひとができた。それまでよく「老けている」と言われていたぼくは、その子の眼中に入るためにも、若返りしよう、と思った。  「コンタクトにする」と親に言ったとき、どんな反応だったか、正確には覚えていない。でもすぐに了承してくれて、一緒に眼科に行ってくれた。  目の検査を終えると、すぐにコンタクトを付ける実習になった。コンタクトレンズを付けると、視界いっぱいに、視力がよかったころの世界が広がった。元々経験していたはずの世界なのに、妙に違和感があった。すべてが鮮明で、広がりをもっていた。そのあとの練習ではなかなか取り外せなくて、一生これを付け続けるのかと思った。それでも私は多くの人と同じように、コンタクト装用を習得した。  好きなひとにその姿を見せたら、「人見知りする」と言われてしまった。そのくらい、ぼくは変わった。縮毛矯正もかけて、ぼくはとりあえず、自分の年齢と同じに見えるくらいには、若返った。  その夏は、とても楽しかった。会うひと会うひとがみんなびっくりしてくれて、ぼくはとても心地がよかった。ふちのない世界に胸が躍ったし、レンズのケアをするだけでわくわくしたものだ。  それから数ヶ月が経って、ぼくは好きなひとにフラれてしまった。  コンタクトレンズを付けるのはまばらになった。2weekのコンタクトレンズを、2、3回付けて期限がきてしまうことが、たびたびあった。ほかにもいろいろなことが重なって落ち込んでいたぼくは、大学に足を運ぶことも、あまりなくなっていた。縮毛矯正した髪は、床屋に2回も行けばなくなってしまった。ぼくは、それまでの天然パーマの眼鏡に戻った。  コンタクトを付けてから10ヶ月ほどが経ったとき、ぼくはドイツに留学した。一応、とコンタクトレンズを持って行った。しかし留学の充実に満たされてきたぼくは、今一度若返ろうと、しだいにコンタクトレンズをする日が多くなっていった。自由な視界で、アルプスの山々や、バチカン、アドリア海を見た。  しかし帰国してからは、ぼくはコンタクトレンズをすっかりしなくなっていった。留学の躍動感の反動か、ぼくは日本の日常に

なぜ星を作品に多用するか

八代作品における星の歴史 私の作品をいくつか楽しんでくれた人たちは気付くだろうが、私がつくるものにはだいたい星が登場する。星が直接登場しなくても、星にまつわるものがなにかしら絡んでくる。その由来を今日はここで紹介しよう。  じつは、私の作品に星がメインに登場し始めたのは、2014年に制作した映画『セギヌスがいた』からである。高校生のときに執筆した『虹との約束』で七夕のシーンがあったり、映画『9センチ四方』で星が登場したりはするが、これらはあくまで、"なんとなくかっこいいから"登場させたのみであった。同時期につくっていた作品には、星が登場しないもののほうが多い。 ある映画制作の思い出 『セギヌスがいた』は、ぼくがあるひとに恋をして、そのひとをエキストラに呼ぶために制作を決めた作品であった。純粋な創作欲ではなく、一個人としての恋情がきっかけの作品であるので、当然作品内容はそれに大きく左右される。制作を意志する少し前に、私はそのひとの親友に「あの子は星とか月とかの形が好きだ」という話を聞いた。星に絡んだ作品にすれば、だれか来てくれるかもしれない、という期待は、そのころから芽生えはじめた。元々、視等級(1等星とか6等星とか)を題材にした作品をつくってみたい、と高校生のころから温めていた構想もあいまって、私は『セギヌスがいた』の脚本執筆を開始した。ほかの構想も幾多あったが、そのころの私には、彼女の好みと温めていた構想が重なることがまるで運命のように思え、そのたび交際を夢想したりしたものである。 『セギヌスがいた』記念Tシャツ  結局、そのひとがエキストラにくることはなく、それどころか連絡もつかなくなってしまった。すがすがしいまでの失恋である。しかし、私は失恋を抱えながらの制作中に、また恋をすることになる。ラストティーンの私のこころは、移ろいやすいものだった。私は撮影班にいたそのひとにカッコつけたい、と、本格的に星や星座の勉強をした。映画の試写会でプラネタリウムを出し、星の話をしよう、と考えたのだ。私が星というものに、作品のスパイスとしてではなく純粋な関心を寄せ始めたのは、このころだった。その恋も結局無残に散ってしまったが、私の星への関心は残り続けた。  その後の映画でも、星は登場し続けた。関心というものは作品制作に大きく影響するもの

夏、制作をします

『渚に走れ』制作時の八代 制作活動復帰  お久しぶりです。  大晦日の 引退作品 公開以来、制作から退いておりましたが、今夏、ふたたび制作に挑戦することにいたしました。「引退したんじゃねぇのかよ」と言われてしまいそうですが、じっさい、以前のような長編映画制作には取り組みません。今回考えているプロジェクトは、"総合作品"という名前がふさわしいでしょう。  『渚に走れ』の制作でやり損ねたことは、原作小説やサウンドトラックス制作、Webページ制作です。作品規模の大きさと度重なる困難が原因です。今回取り組もうとしているものは、小説・映像・音楽という異なった表現のアプローチで一作を完成させ、芸術スタイルの違いを楽しもうよ、というものです。私はもともと小説畑の人間ですから、大学入学後初めて本格的な執筆ができると思うと、心躍る気持ちです。小説は中編程度、映像・音楽は長くても15分程度のものを予定しています。  ネタバレはよくないでしょうから、詳しい公表は避けますが、センシティヴなテーマについても触れる予定です(これまでの作品でも触れたものがありますが)。現在のメンバーは4人……私の制作チームに参加したことがありません。新しいものができあがるかもしれません。もちろん今後、卒業生たちも参加するかも!?  引退作品では、楽しみにしてくれていた人たちを長期間お待たせすることになってしまいました。あの完成から、私は強くなりました。老兵の意地を見せます。留学を経て大きく変わった八代翔が、どんな作品をつくるのか、お楽しみに。 メンバー募集  もちろんメンバーも募集しています。とくに、絵が描けるひと、音楽に詳しいひと/楽器ができるひと、大歓迎です。絵は私の大苦手な分野ですし、作曲も初めてですから、あなたの力を貸してください。活動は梅雨が明けるころ、スタートします。  この夏、一緒に新しい世界をつくってみませんか。

セギヌスの夏

 「セギヌスがいた」2014年にぼくが制作した、恋愛映画だ。  当時、ぼくは片想いをしていた。その子と会う機会が欲しくて、エキストラに呼べばきてくれるかな、なんて思いながら、脚本を書いていたものだ。同じく恋慕の切なさに震えていた友人と、プロットの打ち合わせをして……大学2年生。親しくなってきた先輩や友だちと、新しく入った後輩を誘って、撮影班を立ち上げた。  撮影は、ほんとうに楽しかった。アドリブ合戦が始まったり、何度もセリフを間違えたり……告白シーンのためだけに山に登ったりまでした。カメラを回しているのがひたすら楽しかった。みんなが一緒に走っているような感じがした。いきなり屋上に上がった。アイスクリームを食べた。スイカを切るだけでおおはしゃぎをした。  主題歌に、奥華子の「迷路」を選んだのは、クランクアップが過ぎて、編集をしている段階だった。そのころ、撮影班では、恋が芽生えていた。片想いもあったし、両想いもあった。ぼくは失恋直後だったが、素敵な女性を見つけたところだった。ぼくらはまさに、迷路のなかにいた。幸せな迷路だったように、いまになって振り返ると思うけれど、必死なぼくらはそんなことに気づいてやしなかった。  それぞれの葛藤があって、誰もが幸せになる答なんか見つけ出せないまま、ぼくらはあの年、映画を完成させた。切ないシーンばかりの映画だった。でも、美しい映画になった。星がテーマの映画なのに、撮影の日はいつも曇っていて、上映会の日も、結局星は見えなかった。あの日、夜空に広がっていたはずの夏の大三角や、さそり座や、セギヌスは、誰も見つけることができなかった。  それでも、いま、奥華子の「迷路」を聞くと、あのころ、ぼくらは星空の下にいたような気がするのだ。10代のぼくらがかいだ草の匂い、セミの鳴き声、うだるような暑さ、異性の感触やみんなの声が、深淵の夜空のなかで、ぽつんと、向こう見ずに輝いていたような、そんな気がするのだ。  今日は同期の卒業式だ。あのころのぼくらでは見つけられなかった、迷路の出口、曇り空の向こうにあったはずの星たち……ぼくらはそれにたどり着けたろうか。あれから誰を好きになったろう。なにに泣いたろう。なにに、夢中になったろう。  奥華子の「迷路」は、まだ、ぼくの胸の奥で鳴り続けている。