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セギヌスの夏

 「セギヌスがいた」2014年にぼくが制作した、恋愛映画だ。  当時、ぼくは片想いをしていた。その子と会う機会が欲しくて、エキストラに呼べばきてくれるかな、なんて思いながら、脚本を書いていたものだ。同じく恋慕の切なさに震えていた友人と、プロットの打ち合わせをして……大学2年生。親しくなってきた先輩や友だちと、新しく入った後輩を誘って、撮影班を立ち上げた。  撮影は、ほんとうに楽しかった。アドリブ合戦が始まったり、何度もセリフを間違えたり……告白シーンのためだけに山に登ったりまでした。カメラを回しているのがひたすら楽しかった。みんなが一緒に走っているような感じがした。いきなり屋上に上がった。アイスクリームを食べた。スイカを切るだけでおおはしゃぎをした。  主題歌に、奥華子の「迷路」を選んだのは、クランクアップが過ぎて、編集をしている段階だった。そのころ、撮影班では、恋が芽生えていた。片想いもあったし、両想いもあった。ぼくは失恋直後だったが、素敵な女性を見つけたところだった。ぼくらはまさに、迷路のなかにいた。幸せな迷路だったように、いまになって振り返ると思うけれど、必死なぼくらはそんなことに気づいてやしなかった。  それぞれの葛藤があって、誰もが幸せになる答なんか見つけ出せないまま、ぼくらはあの年、映画を完成させた。切ないシーンばかりの映画だった。でも、美しい映画になった。星がテーマの映画なのに、撮影の日はいつも曇っていて、上映会の日も、結局星は見えなかった。あの日、夜空に広がっていたはずの夏の大三角や、さそり座や、セギヌスは、誰も見つけることができなかった。  それでも、いま、奥華子の「迷路」を聞くと、あのころ、ぼくらは星空の下にいたような気がするのだ。10代のぼくらがかいだ草の匂い、セミの鳴き声、うだるような暑さ、異性の感触やみんなの声が、深淵の夜空のなかで、ぽつんと、向こう見ずに輝いていたような、そんな気がするのだ。  今日は同期の卒業式だ。あのころのぼくらでは見つけられなかった、迷路の出口、曇り空の向こうにあったはずの星たち……ぼくらはそれにたどり着けたろうか。あれから誰を好きになったろう。なにに泣いたろう。なにに、夢中になったろう。  奥華子の「迷路」は、まだ、ぼくの胸の奥で鳴り続けている。