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社会人としての帰省

帰省

社会人初のゴールデンウィークは、名古屋で友人を探したり観光をしたりすることを考えた。しかし、4月も下旬に近づくにつれ、実家で癒やしを得たくなった。それに、行きつけの居酒屋に顔を見せたかったし、6月に留学してしまう友人もいたので、ぼくは帰省をすることに決めた。帰省日の1週間前に、それを決めた。

1~2日目

新幹線切符はすぐに取ることができ、火曜日のお昼頃には東京に帰り着いた。驚いたことは、実家のあるマンションのエレベーターホールの床が入れ替わっていたことである。ほんとうにささいなことである。実家のマンションは古いので、毎年、どこかしらを改修する。しかし、それを逐一目で追わずに、帰ってきたときに突然知ることになると、少しばかりさみしい心地がするものである。
 実家では久々にギターを弾いて歌った。普段は縁遠い健康的な食事をして、翌日は、高校時代の友人に会った。社会人になった者や、現在就職活動中の者がいた。この年齢になると、同期でも人生のステージが違う者が増えてくる。Facebookを開いたら、中学時代の同期の婚約を知ったりもした。会社で苦しんでいる友人の話を聞くと、いたたまれない気持ちになる。研修はあと2ヶ月で終わってしまうので、明日は我が身である。

3~4日目

私にとって最も感慨深かったのは、帰省3日目であった。
 地元のおしゃれなカフェで大学の友人と話をした。ぼくにとって自分の地元は、いかにも下町で、上品とか粋とかいった言葉は似つかわしくない町なのであるが、その日初めておしゃれな店に入り、なんだか不思議な気持ちになった。地元は、ぼくが高校生のころに大学ができて以降、少しずつきれいになっている気がする。
 その日の夜につくばに向かった。なじみの居酒屋で飲み仲間と2人しみじみ飲む予定であったが、車で迎えに来てくれた友人や、つくばで働いている友人、現在大学4年生である友人が集まって、例によってわいわいと飲むことになった。このときぼくはまだ、つくばは、懐かしいようで懐かしくないようで、不思議な心地がしていた。まだ、つくばを"遠く感じる"ことをしていなかった。
 飲みは大変に盛り上がって、ぼくはとても幸せな気持ちになった。このときぼくは、社会人としてではなく、元筑波大生として、つくばにいたように思う。そのあとはカラオケに行き、歌いたい放題歌った。声がかれて、酒も回った。眠くなった。不健康な大学生を象徴するような時間に、しだいにぼくは"なつかしさ"に近いものを感じ始めた。
 友人の家に泊めてもらって、翌日……駅までつくばの学生街を歩いた。このときぼくは初めて、つくばが遠くなったのを感じた。まぶしいくらいの新緑、自転車で行き交う学生たち、ボリューム感のある食事処……この土地の主役は、学生なのだ、と感じた。そのとき同時にまたぼくは、最終学年の冬に感じていたどことない孤独感の正体を理解したように思う。この学生街の成員である実感は、若さだとか、みずみずしさに依っているのである。

5日目

翌日に帰るという段になって、ぼくはまた、友人に会いに出かけた。地元の店で昼酒をした。彼女は来月の今頃にはドイツに留学してしまうため、実質、これが最後の機会になった。ドイツで学ぶことだとか、芸術の話だとか、とにかくいろいろな話をした。久々に会う友人だったが、しばしばコンタクトをとっていたり、Twitterで繋がっていたりと縁遠くはなっていなかったので、まるで昨日会った友人のように交流することができた。ほんとうに親しいひとというのは、いつもそういうものである。
 かっこよくリードしようと思ったのだが、ぼくはすっかり酔っ払ってしまって、結局しゃべりたい放題しゃべるめんどうくさいおっさんになってしまったが、彼女なら許してくれることだろう。別れ際に、向こうのビールを送ってきてもらう約束をした。ぼくも日本酒を送ることに決めた。空から届くドイツビールは、きっと特別な味がすることだろう。
 その日の夜は、実家でラーメン鍋を食し、お酒を飲んで、そのまま寝てしまった。実家ではいろいろ感謝を表したり親孝行をしたりすべきなのであるが、帰ってくるととても安心して、すっかり堕落してしまうのである。"帰る場所"というのは、結局、気持ちよく眠れる場所なんじゃないか、と思う。実家の布団でもいいし、恋人のそばでもいいし、なんなら友人と雑魚寝する狭いアパートでもいいのである。
 名古屋はいつ、ぼくが"帰る場所"になるのだろうか。そんなことを考えながら、ぼくは今新幹線に乗っている。

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