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なぜぼくが酒食みなきに通うようになったか

 今夜はすこしセンチメンタルな夜だ。体調がよくないのもあるし、不意に思い出した昔が胸を締め付けているのもある。だから、今日はぼくが酒食みなきに通うようになったいきさつを綴ってみようと思う。
 知らないひとに説明しておくと、酒食みなきとは、ぼくの家の近くにある日本酒専門の居酒屋だ。豊富な日本酒のラインナップとおいしい料理が売りで、20~30人程度の店内は落ち着いた雰囲気だ。そんな店にぼくは週1回のペースで足を運んでいる。

 ぼくがちょうど20歳になったころ、その店は開店したらしい。ぼくは8作目の映画を完成させた直後で憔悴していて、近所の桜すら見に行かなかったくらいだから、当然新しい店ができたことなんて気づきやしなかった。大学3年生になってある程度は時間に自由ができた一方、来年の留学準備もぼちぼち始めようとしていた、そんな季節だった。
 ぼくの友人がIT起業をしていて、それに参加をしたころでもあった。1からWebフロントエンドのコーディングとデザインを勉強して、流れてくるタスクに必死でしがみついていた。
 新緑が映えるころになると、ついに映画引退作に手を出し始めた。脚本は超大作になり、2時間ものの作品になることは確実だった。映画引退作品というだけでも重要なものであったが、ぼくにはもう1つ、その作品に重要な要素があった。それは18歳のころ好きだったが、失恋して以来、まったく交流がなくなってしまった女性と、きちんとまた関われるようになることだった。だからぼくは神聖な気持ちで、カメラを回し始めた。
 恋も、していた。映画に出ていたサブヒロインへの気持ちが募っていたぼくに、友人の助けも借りて、なんとか撮影の時間外に会う機会が設けられたりした。
 でも――問題もあった。ぼくの友人同士が女問題でトラブルを起こしていて、しかもその2人は同じ撮影班だったものだから、ぼくは2人の話に耳を傾ける必要があった。友人の元カノと付き合い始めた友人が幸せそうにしているのを見て、なぜか祝福できないぼくがいた。それまでも、映画で2回ほど、三角関係が起きたことがあった。幸せの背後に必ず不幸があって、ぼくはしだいに、恋愛という現象に疲れていった。
 それでも、ぼくは恋愛映画の監督だ。なんとか元気を奮い立たせていたが、重要な撮影の日のほとんどが雨になった。思い描いていた映像は、ことごとく打ち壊された。いま思い返しても、雨の多い夏だったと思う。
 映画に苦戦していたのもあって、せっかく技能を覚え始めたIT起業の手伝いにも心を配れなくなってきた。タスクは積み重なって、ついに、ぼくは壊れてしまった。なにもかも投げ出したくなって、自殺願望が強く募るようになった。
 そして8月の末、ぼくはすべてを辞めることに決めた。留学の準備は中断、IT起業の手伝いもそのとき請け負っていたタスクを消化したら辞退して、2年半所属していたサークルも辞めてしまった。一番悲しかったのは、好きだった子に告白をしたときだった。その子と会っているときは幸せで仕方がなかったはずなのに、告白をする日、ぼくにのしかかっていたのは、鬱屈と疲弊だった。思い切ったものにしようとしていた告白は、ひどく迫力の欠けた、かっこ悪いものになった。それでも、ぼくは一度、もうすべてを終わらせたかった。案の定フラれたけれど、それでいいと思った。ぼくはもう、すべてから身を引きたかったのだ。
 映画は9月の上旬にクランクアップしたけれど、編集はいっこうに進まなかった。授業が始まってからも、出る回数は減っていった。せめて留学準備だけでも、と動き始めたときに、好きだったその子に、彼氏ができたらしいという情報が入った。疲れ果ててしまっていたけれど、やっぱり好きなものは好きだったのだろう。その日ぼくは完全に自分の殻に引きこもるようになった。
 そんなときだった。Twitterで酒食みなきの情報が回ってきた。飲み仲間の友人と、そこに遊びに行った。いい店だった。酒がうまかった。でもそのときは、多くの店のひとつに過ぎなかったと思う。
 そのころ、彼女ができて浮かれていた友人によく飲みに誘われた。のろけを聞いたり、元カレへの憤りを聞いていたぼくは、大好きだった飲みがだんだん厭になってきた。あのころ、仲がよかった友人にはみんな恋人ができていて(恋愛ラッシュというやつか?)、嫉妬や、取り残された気持ちもあった。だから、誰と飲んでも元気にはなれなかった。アパートに引きこもった。
 思いつきというのは不意に訪れるものだ。ある日なんだか鬱屈としていたぼくは、外に出なければ、と思った。そのとき、ひとりで飲みに行こう、と考えた。人間がすっかり嫌いになっていたけれど、お酒まだ好きなんじゃないか。どこに行こうか考えたとき、友人と飲みに行ったあの店を思い出した。映画を撮ったばかりで借金苦だったが、なんとか貯金を引き出して、ぼくは酒食みなきに足を運んだ。カウンター席にひとりで腰掛けた。生まれて初めてのひとり飲みで緊張したけれど、「渋い親父」をイメージしてそれが表に出ないようにした。そのとき、ぼくに話しかけてくれたのが、ご主人だった。何気ない話をした。どの挫折とも、憎悪とも、悲痛とも、まったく無関係な話だった。どのお酒がどんな味がする、とか、趣味の話とか、そういうものだったと思う。それが、ぼくにはとても嬉しかった。そのとき、ぼくは気づいた。これがぼくに必要だったものだ、と。ぼくはそのとき、親しかった誰にも心を許せなくなっていたのだ。だから、これまでのしがらみとはまったく無関係な、そういう世界が、ぼくがつくっていたぶ厚い殻を壊すのに必要なだったのである。
 ぼくはそれから、足繁く酒食みなきに足を運ぶようになった。ご主人とそこでバイトをしていた先輩女性と話すのが、ひたすらに楽しかった。今思い返せば、カウンセリングみたいなものだったと思う。留学の準備を始めた。あの店はぼくの大きな転換点になった。
 1月……映画の編集に着手した。打ち上げの日程を決め、編集を頑張った。時間が足りなくて完成させることができなかったけれど、そのとき有意義だったのは、友人たちと素直に関われたこと。そして、18歳のころ好きだったあの子も、打ち上げに来てくれたことだった。ぼくがあの夏、唯一成功したのは、彼女と友人になれたことだと思う。
 留学前、最後に寄った店も、酒食みなきだった。やっぱり、人間が嫌いになる時間があった。それでも、そこで酒を飲んでいる時間だけは、等身大の自分でいることができた。
 あれから2年が経つ。いまもぼくは自殺願望に呑まれている。あの季節に死んでしまえばよかったと、思うこともある。それでも酒食みなきで酒を飲んでいるとき。ご主人とたわいのない話をしているとき。ぼくはそういう感情から、自由になれる。
 鬱屈としているとき、人間に必要なのは、新しい世界なんじゃないだろうか。いや、もっと正確に言えば、自分を覆い尽くしているなにかから、完全に無縁の世界だ。酒食みなきが、ぼくにとってはそれだった。もし君がいまなにかに落ち込んでいて、出口を探しているなら、目の前の困難の果てではなくて、もっと、全然違うところにそれはあるかもしれない。外に出ないか。見つけてみないか。新しい世界を。

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